第1話
就職して1年目の夏、ようやく東京での暮らしに慣れて来た。
もう洗濯もできるようになったし、簡単なものなら食事だって作れる。
でも掃除だけはどうも億劫だ。
そんな僕の元へ中学校の同窓会の招待状が届いた。
集合場所は、神戸市東灘区にある僕たちの母校。
「懐かしいなぁ……みんなどうしているのだろう……」
僕はひととき遠い記憶に想いを馳せてみた。
放課後よく遊んだ仲間たち、1位でテープを切ったあの感動、いつも小言ばかり言ってた担任教師、あ、それに優等生で美人だった片桐静香……ああ、懐かしいなぁ。
新神戸駅に着いた僕は実家にも戻らないで、先に同窓会の会場に急いだ。
(8年ぶりだしかなり変わっているだろうなあ……)
あの忌まわしい阪神大震災から8年の年月が流れた。
一度は瓦礫の山となった神戸の街も今は元どおりの賑わいを取り戻している。
だが、震災の爪痕は深く、街の景色をすっかり替えてしまった。
木造の長屋がひしめき合っていた下町も今は立派なマンションへと姿を変えていた。
「何か別の街に来たみたいだな……」
ちょっとセンチになりつつも、僕は目的地へと足を進めた。
僕は集合場所だった中学校の校門に少し早く着いた。
「まだ誰も来ていないなぁ。ちょっと早すぎたかな?」
時計を見た。針は1時40分を指している。
約束の時間まで20分も早い。
「ちぇっ、遠い僕が早く来て地元のヤツラはまだ来てないや。まあ仕方ないか、時間前だもんな」
以前は古びた鉄筋コンクリートの校舎も、今は真新しい建物に変わっている。
(もしかして震災で壊れたのかな?)
周辺を見回しているうちに、校門側に1本のけやきが目に止まった。
「あ、この木は当時のままだ。懐かしいなぁ……」
とても大きな木で、中学校が創設された時代に植えられたものと聞いている。
友達との帰りの待ち合わせに、「あのけやきの下で」と約束を交わしたことも何度かあった。
今でもきっと約束の場所に使われているだろう。
けやきを感慨深げに見上げていた僕に、突然女性の声が呼びかけてきた。
「あのぅ……もしかして3年B組の小早川俊介くんですか?」
僕は思わず振り向いた。
そこにはいつの間にか、グリーンのワンピースを着た二十代半ばくらいの女性が立っていた。
第2話
とても気品に満ちて清楚な美人だが、どこか少女ぽさが残っているようにも思える。
「うん、小早川俊介だけど……君は……?」
「私のこと……覚えてないですよね?」
記憶の糸を必死に手繰り寄せてみる。
くすくすと笑う顔が……あっ!もしやあの憧れだった片桐静香では!?
「もしも違ってたらごめんね。君、片桐静香さんじゃない?」
「まあ、嬉しいわ。そうよ、片桐静香です。おひさしぶりです」
静香はそういって丁寧に頭を下げた。
「あぁ、どうも」
僕はかの憧れの人が目の前にいるかと思うと、照れてしまって同様に頭を下げるしかなかった。
当時、男子生徒からも注目の的で高嶺の花的存在だった片桐静香。
彼女と会話ができたことを昼休みにわざわざ自慢話をする男子生徒もいた。
しかし、当時引込み思案だった僕は会話をするどころか、彼女にチラリと見られただけでも心臓が張り裂けそうなほど痛んだ……そんな記憶が今鮮やかに蘇る。
「小早川くんってすごく変わったわね。もうすっかりと大人の男ね」
そう言って、彼女は屈託なく笑う。
「え?いやそんな……まだまだ大人には……」
相変わらず笑顔がよく似合うきれいな人だなぁ……と思った瞬間、当時なら言えなかった言葉が今は素直に言えるようになっていた。
「片桐さん、すごくきれいになったね。いや、昔もきれいだったけど一段と」
「まあ、嬉しいわ。ありがとう」
「ところでこの辺りもかなり変わってしまったね」
「そうね。この辺りは震災の影響をまともに受けてかなりの家が潰れてしまったのよ。私の家も全壊したし、この学校の校舎もね。今ここにあるのはその後建替えした校舎なのよ」
父親が転勤のため平成6年に他県に引越しをしたため偶然にも震災の難を逃れたが、以前住んでいた借家はどうなっているのだろうか。
僕が引っ越した後も、彼女は神戸の街に住み続けて、そして被災したのだろう。
思い出のぎっしりと詰った場所を目前で失った彼女はどれほど辛かっただろうか。
「でもね……このケヤキは残ったのよ。あんなに酷い地震にも耐えてしっかりと大地にしがみついて倒れなかったの」
「そうだったんだ……」
「でも木だけじゃないわ。人間だって強いわ。あんなに酷く叩きのめされても立ち上がって、こんなに立派な街に復興したんだから……」
第3話
「君だって偉いよ。悲しみを越えて生きてきたんだから」
「ううん。そんなことないわ。私は全然強くないもの……」
静香は老木に寄り添い、皺だらけの幹をそっと細い指で撫でながら微笑んだ。
しかし、彼女の微笑の中にどこか悲しみの影が潜んでいるように感じたのはどうしてだろうか。
「小早川くん……」
「なに?」
「あのね?」
「うん、どうしたの?」
「あのぅ……私、実はね……いや、言うのはやっぱりやめておくわ」
「何だよ。そんな中途半端なところでやめられたら、かえって気になってしょうがないよ~」
「そうね。ごめんね。じゃあ言うけど……絶対、笑わないって約束してくれる?」
「うん、笑ったりしないと約束するよ」
僕がうなずくと、静香は少し安堵の色を浮かべ、意を決したように口を開いた。
「……私、本当は、小早川くんのことが好きだったの」
突然の告白に、僕は静香の顔を思わずまじまじと見つめてしまった。
目の前の彼女は、気恥ずかしさを堪えるように、僕の瞳をじっと見つめている。
「同じクラスになった時から、ずっと気になってたの。でも自分から言い出せなくて……。小早川くんに嫌われたらと思うと言い出せなくて……ずっと言わないまま……卒業してしまったの……」
言葉を詰らせながらも、静香は懸命に話す。
ほのかに顔を上気させ、祈るように胸の前で手を組みながら、8年以上暖め続けてきた想いを伝えようとする静香。
僕たちの歳になれば、そんな昔のことなど、笑い話にしてサラッと言ってのけるものなのに。
そして、そんな彼女を、俺は改めて『愛しい』と思った。
今まで記憶の隅っこにしまいこんで、ずっと忘れ去っていたのに。
お互いに言葉が見つからないまま、時が流れて行く。
「私……もう行かなければ……」
午後2時の予鈴が鳴り響いた時、突然、静香が思いつめたような顔で呟いた。
「やっと本当の気持ちを伝えることができて、私、嬉しかった。でも……ここでお別れだわ……」
「さっき来たばかりなのに……みんなももうすぐ集まるし、せめてあと1時間だけでも……」
「そうしたいんだけど……それができないの。ごめんね。みんなによろしく伝えてね」
「お、おい!片桐さんっ!」
足早に去って行く静香の後を僕は追った。
しかし、角を曲がった所で見失ってしまった。
第4話
一体どうしたんだろう。
何かを避けているように見えなくもないが……。
校門へ戻ってみると、向こうの方から数人の男女が近づいてきた。
先頭を歩いているのは、当時の遊び仲間で、同窓会の幹事でもある岡部だ。
「小早川!久しぶりやなぁ、元気にしとうか?遠いのによう来てくれたなぁ~!」
「おお、岡部くん!久しぶりだね~。みんな元気か!?」
目の前にいるのは懐かしい顔ぶれだった。
片桐さんだって、みんなの顔を見ればきっと……
「そうそう。さっきまで片桐さんもいたんだけど、用事があるらしく帰っちゃったんだぁ」
僕がそう言った途端、それまでニコニコしていた岡部の顔が、突然怪訝な表情に変わった。
「おいお前、今、片桐て言うたな……?まさか片桐静香のことちゃうやろな?」
「そうだけど、何か?」
「そんなはずは……彼女は……」
「どうしたんだよ一体。はっきり言えよ」
不吉な予感に駆られて尋ねる僕に、岡部は真剣な眼差しでこう告げた。
「彼女の家、あの震災で全壊してしもて……一家全員下敷きになって死んだんや……」
「「じゃあ、僕が、先程まで話をしていた彼女は一体……」
「信じられへんけど……片桐静香やろな……」
「そんなバカな……」
「お前は当時気いついてなかったみたいやけど、彼女はお前のこと、えろう好きやったそうや……。他の女の子がそういうとったんを憶えとうわ」
その時、風もないのに緑々と繁ったケヤキが、晴れ渡った青空の下、ヒラヒラと一葉舞い落ちた。